西南戦争における薩軍の大義
私学校が上京準備をしていることを知った大久保利通は、これを政府への挙兵準備と受け取りました。大久保は早くから私学校を警戒していました。
私学校による武器弾薬庫略奪事件や幹部暗殺疑惑が発生し、陸軍大将による薩摩義勇軍の上京という名分が、刺客問題への尋問という名分へと変わってしまいました。
これは政府の不正に対する尋問であって、即座の挙兵ではありませんでした。挙兵となったのは、県境を越えた時点で熊本鎮台兵が攻撃を加えたからです。
薩軍出発直前、鹿児島県令・大山綱良が南洲翁に面会した際、西郷は次のように語ったと記録されています:
「先年東京を引き取る時、既に兵隊のもの大難を起こし、戦にも及ばんとする勢いにつき、人数を連れて直に御暇を願い帰県した。その以来今日まで、人数を纏め居りし拙者の旨意は、何れ近年の内には外患起るべく、然るに日本今日の形勢にては、とてもその防禦を為すこと能わずと見込に付き、その節に当っては、右兵隊のものを以て、国難に報ずる素志なれども...」
翁は、もし鎮台兵が上京を遮るようなことがあれば「打ちて通るべし」との指示を与えていました。
事実、熊本県庁は薩軍の通過を遮り、熊本鎮台は2月21日に越境した薩軍を奇襲しました。薩軍はこれに応じました。
南洲翁は征討軍総督の有栖川宮熾仁親王に次の文章を送るよう大山綱良に依頼しています(2月28日頃):
「今般陸軍大将西郷隆盛外二名上京の次第は、兼ねて御届け申し上げ置き候通りにて、既に去る十五日当地発程致し、尤も通行に付いては、先に各府県各鎮台へ通知致し置き候処、熊本県においては未前に庁下を焼き払い、剰(あまつさえ)通り筋川尻まで押し出し、砲撃に及び候旨、追々報知これあり、実に意外の次第に立ち至り候。」
翁は続けて次のように述べています:
「西郷隆盛儀は先般辞表差上げ以来、県下厳粛に謹慎致し、且つ数万の士族輩自費を以て学校を開き、忠孝を重んじ、諸生を教導し、第一方向を誤らざる様、勉めて説諭し、既に佐賀の暴動、引き続き熊本・山口同断の節、県内安静、終に一毛を損なわざるは、全国に明瞭なる事に候処、何等の御嫌疑これあり、容易ならざる国憲を犯し、暗殺の内諭を下し候義、実以て人民一同疑惑罷り在り候。」
翁は武器を携えた理由について「暗殺を命ぜられ候程の者、異儀なく上京相遂げざるは勿論の事にて、止むを得ず」と説明しています。
さらに翁は「至急御勅諭成し下され、最も西郷大将の趣意も貫徹致し候様、御処分下されたく」と求めています。
政府が定めた法を破ったのは政府側でした。征韓論に関する正院における討議では、非征韓派が完全に論破されました。翁は公正な決議を求めて欠席し、他の参議に採決を委ねました。
太政大臣・三条実美が病に倒れたため、大久保の秘策によって岩倉が代理として奏上することになりました。岩倉は、両方の意見を奏上して聖断を求めるとして、閣議の結果をそのまま奏上しませんでした。征韓派の参議は岩倉の不公正さに抗議して辞職を申し出ました。
さらに悪質なことに、岩倉は西郷以外が最終的に岩倉説に賛同したかのように、閣議の模様について偽りの奏上を行っていました。
一方、南洲翁の子弟は自らを戒め、国憲を犯しませんでした。
大久保は自説を反故にして、内乱を誘発し(佐賀の乱、萩の乱)、外征(台湾征伐、江華島事件)を実施し、国憲を破りました。
武器弾薬庫襲撃事件では、最初に国憲を破ったのは政府側です。県庁との間で運び出しの取り決めがあったにもかかわらず、政府はそれを破って闇に紛れて運び出しました。
襲撃事件とほぼ同時に私学校幹部暗殺疑惑が浮上しました。私学校徒の激昂は頂点に達しましたが、南洲翁はあくまでも上京・尋問という筋のある態度を崩しませんでした。
暗殺を企てるほどの政府ならば、護衛が必要となるのは当然です。政府が自ら制定した法を破り、忠良なる国民を抹殺しようとするなら、国民はどうやってその不正から身を守ればよいのでしょうか。自らの力で守るしかありません。
政府は自ら制定した法を、厳粛に守らなければなりません。大久保や岩倉にはこの遵法精神が欠けていました。主張が通らぬたびに、思い通りにならぬたびに、法を犯したのです。これは政府の私物化です。
征韓論破裂時に辞職した南洲翁に与えられていた陸軍大将の地位をそのままにしたのは、政府、なかんづく大久保自身です。彼らが出させた勅諭は次の通りです:
「西郷従三位病気に付辞表の趣ありて参議・近衛都督等差免じ、尤も大将旧の如く申し付け置けり。元より国家の柱石と依頼致すの意において渝(かわ)ることなし。皆々決して疑念を懐かず、これまでの如く職務を勉励せよ。」
政府は鹿児島に張り巡らした密偵網により、南洲翁が弾薬庫襲撃に関与していないことを把握していました。にもかかわらず、疑念を懐き、討つ準備を進め、さらに襲撃したことは、この勅諭に違反しています。
これに対し、南洲翁は陸軍大将の資格で、諸官庁に上京の趣旨を通知した上で、兵を引き連れ、尋問のため上京しようとしました。翁が勅諭の内容を知っていたかどうか知りませんが、少なくとも勅諭に適った行動でした。法理として勅命違反がどちらであるかは明瞭です。
翁は、大久保らが制定した国憲に忠実に行動したのであって、その逆ではありませんでした。
政府は更なる攻撃を加え、3月4日には田原坂の激戦が始まりました。翁の右腕の一人にして陸軍少将の篠原国幹が戦死したのもこの日です。
政府の意図がいよいよ薩軍を殲滅することにあると確信した翁は、激しい怒りを込めて、政府の態度を弾劾する文書を書きました。
宛先は再び征討将軍宮です:
「今般陸軍大将西郷隆盛等、政府へ尋問の次第これあり出発いたし候処、熊本県は未前に庁下を焼き払い、剰(あまつさ)え川尻駅まで(鎮)台兵押し出し、砲撃に及び候故、終に戦端を開き候場合に立ち至り候。然る処、去る九日には征討の厳令を下され候由(実際には2月19日)。」
翁は続けます:
「畢竟政府においては、隆盛等を暗殺すべき旨官吏の者に命じ、事成らざる内に発露に及び候。この上は人民激怒致すべきは理の当然にこれあるべく、只激怒の形勢を以て征討の名を設けられ候ては、全く征討をなさんため、暗殺を企て、人民を激怒なさしめて罪に陥れ候姦謀にて、ますます政府は罪を重ね候訳にてはこれあるまじくや。恐れながら天子征討を私するものに陥り、千載の遺憾この事と存じ奉り候。」
この下線部は誤読されています。翁の批判の対象が、三条・岩倉・大久保を中心とする政府であることは明らかです。これは天皇を非難しているのではなく、本来なら公正であるべき天子の征討が、政府に私物化されているという批判なのです。
かつて参議として閣議に列席していた翁は、この征討令がどのような経緯を経て発せられたのかを熟知しています。それは明らかに天皇の聖断ではなく、閣議によって決定されています。
天皇が維新の元勲らの合議の結果成った決定を自発的に拒否することはまずありえません。だから天子の征討とはいっても、実質的には政府の意図に基づく征討です。
だからこの文書は、宮さまへの諫言という形を取っています。
「この上ながら宮を押し立て来り候わば、打ち居(す)え罷り通り申すべく候に付き、何卒右の御計らい御手数ながら宜しく願い奉り候。」
つまり、この諫言を読んだ上で、それでも宮様を押し立てて攻め込んでくるなら、打ち据えて罷り通るまでだ、というのです。
福沢諭吉は『丁丑公論』において、南洲翁を弁護しました。薩軍の挙兵の理由について、彼は次のような批判をしています:
「西郷が、政府に尋問の筋ありとは、暗殺の一条を糺さんとするの趣意か、はなはだ拙なるものというべし。暗殺の真偽もとより分明ならず、たとい実にこの事ありとするも、この一事を糺すを以て兵を挙ぐるの大趣意とするに足らず。」
しかし、南洲翁の諫言書の次のくだりを見れば、福沢の批判は妥当ではありません:
「この上は人民激怒致すべきは理の当然にこれあるべく、只激怒の形勢を以て征討の名を設けられ候ては、全く征討をなさんため、暗殺を企て、人民を激怒なさしめて罪に陥れ候姦謀にて、ますます政府は罪を重ね候訳にてはこれあるまじくや。」
これこそが薩人たる人民の権利を述べ、今の政府の圧政を咎めるものです。暗殺はその証左の一つとして述べられているに過ぎません。
尋問は、卒兵上京の名分に過ぎませんでした。応戦して初めて形跡としては挙兵と相成りました。薩軍の側からすれば正当防衛でした。
その開戦後の諫言において、南洲翁は薩軍の正義を述べています。それは皇族への諫言に止まり、天下へ公表されることはありませんでしたが、福沢の批判には堪えうるものでした。
むしろ「唯身ひとつをうち捨てゝ、若殿原に報いなむ」と詠んだ勝海舟の方が、肝胆相照らす仲であるはずの西郷南洲の戦いの意義を見損なっていました。
西南戦争と三菱
薩摩の強さは近代銃の製造工場を導入、稼動させていた事実にありました。明治9年1月29日、政府は鹿児島県にある陸軍省砲兵属廠にあった武器弾薬を大阪へ移すために、秘密裏に赤龍丸を派遣して搬出を行いました。
この搬出は、陸軍が主力装備としていたスナイドル銃の弾薬製造設備の大阪への搬出が主な目的でした。山縣有朋と大山巌という陸軍内の長閥と薩閥の代表者が協力して行われました。
陸軍はスナイドル銃を主力装備としていましたが、その弾薬は薩摩藩が設立した兵器・弾薬工場が前身である鹿児島属廠で製造され、ほぼ独占的に供給されていました。
後装式のスナイドル銃をいち早く導入し、集成館事業の蓄積で近代工業基盤を有していた薩摩藩は、イギリスから設備を輸入して1872年(明治5年)の陸軍省創設以前からスナイドル弾薬の国産化に成功していた唯一の地域でした。
火薬庫襲撃事件
連日、各地の火薬庫が襲撃され、俗にいう「弾薬掠奪事件」が起きました。私学校徒が入手できたのは、山縣や大山が重要視しなかった旧型のエンフィールド銃とその弾薬のみでした。
この弾薬略奪事件を演出したのは大久保利通、大山巌ら薩摩藩近代派の、西郷一派への挑発でもあり、旧武士階層の体制的崩壊を作り出すことが目的でした。
西南戦争の戦費と不換紙幣の発行
西南戦争の戦費が重くのしかかりました。殖産興業政策を推し進めてきた明治政府はこれまで積極財政を取っていたため、毎年おおよそ4000万円~5000万円の歳入に対して5000万円~6000万円の歳出という赤字財政を続けていました。
さらに戦費は4200万円の不換紙幣を発行することで賄われました。そのため明治11年以降紙幣価値の暴落、物価の急騰という急激なインフレに見舞われることになりました。
明治維新の最初の最大の政商、三菱商会
最初に弥太郎が巨利を得たのは、維新政府が紙幣貨幣全国統一化に乗り出した時のことでした。各藩が発行していた藩札を新政府が買い上げることを事前に察知した弥太郎は、10万両の資金を都合して藩札を大量に買占め、それを新政府に買い取らせて莫大な利益を得ました。
この情報を流したのは新政府の高官となっていた後藤象二郎です。これは今でいうインサイダー取引でした。弥太郎は最初から政商として暗躍しました。
三菱商会は、明治7年(1874年)の台湾出兵に際して軍事輸送を引き受け、政府の信任を得ました。明治10年(1877年)の西南戦争でも、輸送業務を独占して大きな利益を上げました。
政府の仕事を受注することで大きく発展を遂げた弥太郎は「国あっての三菱」という表現をよく使いました。しかし、海運を独占し政商として膨張する三菱に対して世論の批判が持ち上がります。
農商務卿西郷従道が「三菱の暴富は国賊なり」と非難すると、弥太郎は「三菱が国賊だと言うならば三菱の船を全て焼き払ってもよいが、それでも政府は大丈夫なのか」と反論しました。
明治11年(1878年)、紀尾井坂の変で大久保利通が暗殺され、明治14年(1881年)には政変で大隈重信が失脚したことで、弥太郎は強力な後援者を失いました。
大隈と対立していた井上馨や品川弥二郎らは三菱批判を強めました。明治15年(1882年)7月には、渋沢栄一や三井財閥の益田孝、大倉財閥の大倉喜八郎などの反三菱財閥勢力が投資し合い共同運輸会社を設立して海運業を独占していた三菱に対抗しました。
三菱と共同運輸との海運業をめぐる戦いは2年間も続き、運賃が競争開始以前の10分の1にまで引き下げられるというすさまじさでした。また、パシフィック・メール社やP&O社などの外国資本とも熾烈な競争を行いました。
これに対し弥太郎は船荷を担保にして資金を融資するという荷為替金融(この事業が後の三菱銀行に発展)を考案し勝利しました。
征韓論をめぐる政争の結果、西郷隆盛は、明治6(1873)年、参議を辞し鹿児島に戻りました。
西郷たちが各地に組織した私学校は若い不平士族の拠り所になりました。鹿児島県は地租改正も秩禄処分も行わないなど中央政府に反抗、あたかも独立国のようでした。
一方、高知では板垣退助らが自由民権運動を展開、反政府活動を活発化させていました。
明治7年以降、佐賀の乱、神風連の乱、秋月の乱、萩の乱と、不平士族の反乱が各地で勃発しました。とどめは西南戦争です。
明治10年2月、西郷が私学校の生徒1万5千人を率いて鹿児島を発ちました。めざすは熊本鎮台。九州各地の不平士族も合流し、総勢4万余となりました。政府はただちに有栖川宮を征討総督に任命し、陸軍は山縣有朋中将、海軍は川村純義中将に指揮を執らせることとしました。
政府の助成を受けている三菱に対してはただちに社船の徴用が命じられました。兵員、弾薬、食糧の円滑な輸送が勝敗を決めるのです。
「わが三菱の真価が問われる時が来た。…怯むな…」。弥太郎は幹部社員を集めて檄を飛ばしました。
「わしは東京で政府との折衝にあたる。石川、お前は大阪で兵站と配船を指揮せよ。川田、お前は長崎で、だ。彌之助は配船の現場に立て…」
三菱は定期航路の運航を休止し、社船38隻を軍事輸送に注ぎ込みました。全社をあげての取り組みは、総勢7万にのぼる政府軍の円滑な作戦展開を支えました。
西郷軍は熊本鎮台を攻めあぐみ田原坂で敗走し、宮崎県の各地を転戦して、ついに鹿児島の城山で最期を迎えました。戦死者は双方あわせて1万人以上でした。まさに内戦でした。
意気盛んだった西郷の軍を、徴兵制軍隊が制圧しました。もはや軍事力は士族の独占ではありません。近代的な装備と編成、それに三菱船団の機動力がそれを実現したのでした。
この戦中、明治天皇は京都に赴き戦況の報告を受けました。7月末には政府軍の勝利が決定的になったので、神戸から三菱の社船広島丸に乗って東京に戻りました。この時の明治天皇の御製:
「あづまにといそぐ船路の波の上にうれしく見ゆるふじの芝山」
後に三菱には金一封が下賜され、社長の彌太郎は銀杯ほか、航海のお供をした彌之助と石川には白縮1匹ほかを賜りました。
この戦いでの彌太郎の立場は微妙でした。立志社を興した板垣は間もなく東京に戻りましたが、高知の民権運動は活発化していました。即刻民選議院の設立が認められぬなら、西郷に呼応して武器をとるべしとの強硬意見も強かったのです。
三菱の船を高知にまわせと迫る者もいました。幸か不幸か、鹿児島士族との連携がうまくいかず高知の民権派の蜂起は不発に終わったのですが、同郷の彌太郎としては辛いところでした。
西南戦争における軍事輸送は、国家の信頼を勝ち得るとともに、三菱が一大産業資本として発展する財政的基盤を築きました。「国家とともにある」との信念を確固たるものにした三菱は、先に無償供与された船舶30隻の代金として120万円を上納しました。
のち、更に買い増して所有船61隻となり、わが国の汽船総トン数の73%を占めるに至りました。
不世出の英雄 西郷隆盛
西郷隆盛は不世出の英雄なり、予かって之を論じて言へることあり、曰く、『陛下は天授、人力の能く及ぶところに非ず』・・『天皇陛下は天から授かったものであり、人の力ではどうにもならない』その他に誰かと言えば、明治の天地、西郷隆盛ただ一人である。
普通の人が、豪傑、偉そうに見えるのは大体、事業が成功して名前が売れてからであるが、西郷だけはそうではありません。
島津斉彬は、門閥にこだわらず多くの家来の中から身分の低い西郷を重用しました。
藩内の健児幼い時から西郷を畏れる。
薩摩を出て京都や江戸に出ると全国の志士達が皆西郷を敬う。
水戸の藤田東湖は、倣岸ごうがんでめったに人を褒めないが、西郷を一目見て惚れた。
豊後の小河一敏、有志の士なり、文久の初、西郷と会った事を日記に書いて『始めて西郷に面会した時、その威風堂々、誰にもまねが出来ない胆略、このような人が今の世にいるとは思われない』と言った。
石見の福羽美靜子爵もまた、立派な人だが、初めて西郷、大久保を見たときの感想を私に語りて曰く、『美靜の千言よりも、大久保の十言を行なうべきで、大久保の十言よりも西郷の一言を行なうべき』と思ったとのこと。
慶應の末、幕府の規則頽廃したと言っても、尚300年、15代将軍の威光あり、勤皇の公卿達から草莽の志士まで幕府が倒れるとは信じられず、このことで朝廷密かに西郷、大久保、小松、木戸、広沢等を呼んでその意見を聞く。
西郷は『勝算間違いなし、ただ天皇の決断を待つのみ』
大久保達は、『如何なる勝算があるのか』と心配する。
西郷曰く、『我々仲間は長年勤皇を唱え国のために頑張ってきたのは今日の為ではないか。今勅問に対して、天皇の決断を求めずして何をするのか』
明治維新の回天の大業は実にこの一言で決まったのである。その他、廃藩置県の件も木戸が提案したとしても、西郷の決断を待って始めて決定した事は、誰もが知っている事である。
南洲逝きて茲に34年
即ち南洲の意気を学び、数年談論しその語を集めてこれを本にすると、南洲が恍々と我が目の前にいるようだ。南洲が生き返る事を其れ庶幾しょき(こい願う)す可き歟か、噫ああ 後の南洲其れ庶幾しょきす可き也。
明治43年『日南学人』
島津斉彬
薩摩藩第28代藩主、幕末一の名君、松平慶永、勝海舟も「偉い人だったよ」と語る。
藤田東湖
幕末の水戸学者・水戸藩士。広く全国の有志と交わって志士の間に信望を集めた。安政の大地震で江戸小石川藩邸官舎で圧死。
小河一敏
幕末勤皇の志士、慶応四年、大阪府から独立した堺県の初代知事に就任。大和川の洪水の際には独断で県民の救済につとめ、土木事業を起こす。また、堺県内に限って通用する小紙幣を発行して県民の便宜をはかるなど、公平至誠の精神で県政にあたった人。
『明治11年5月、大久保利通が紀尾井町で暗殺された事を聞いた小河は自宅で来客と話をしていた。しばらく息を忘れたように考えているふうであったが、やがて、―アア、天トイウモノハアルカ。といって長嘆した』
司馬遼太郎『歳月』より
福羽美静
幕末明治初期の国学者・神祇官僚。石州津和野藩士。元老院議員、貴族院議員、子爵、著書には『古事記神代系図』『人事百話』『国民の本義』その他多数。
明治31年12月18日上野公園で西郷隆盛銅像の除幕式において祝歌
「西郷隆盛英士の銅像のまへに
国のためつくし 国のためつくし猶々なほなほと
おもひし君が心尊(こころとおとさ)」