敬天愛人フォーラム21 西郷隆盛に学ぶ
西郷隆盛を知る

上野公園にある説明板の内容が変わっていた

上野戦争を巡る「彰義隊」の歴史をひもとくと、上野公園にある説明板が令和6年に書き換えられていることに気づく。

令和6年版説明板の内容

江戸幕府第十五代将軍徳川慶喜は大政奉還の後、京都の新政府から朝敵の汚名を着せられたが、内戦による列強の介入を阻止するため一切の弁明をせず寛永寺に謹慎した。慶喜一橋時代からの側近たちが、尊王を貫ぬいた慶喜への冤罪を雪ぎ、冤罪をつくった薩摩討伐をめざし、慶応四年(1868)二月に彰義隊を結成。慶喜の水戸退陣後も徳川家霊廟や寛永寺山王・輪王寺宮の警護を目的として上野に駐屯し、江戸の治安維持にも任じたために市民の人気を博した。

同年五月十五日朝、新政府軍は西郷隆盛の陣頭指揮で上野の山を総攻撃、彰義隊の生き残った隊士は同夕方退去した。いわゆる上野戦争である。新政府は彰義隊士の遺体を収容し祀ることを禁じたが、円通寺の住職仏麿らによって当地で荼毘に付された。

新政府による言論統制が解除された後の明治七年(1874)元彰義隊士小川興郷(椙太)らが許可を得て、彰義隊の墓を此処に建設したが、完成した唐金の宝塔は借金の形に持ち去られた。現存の大墓石は小川らによる再建で明治十七年落成。墓石には新政府をはばかって彰義隊の文字はなく、旧幕臣山岡鉄舟野筆になる「戦死の墓」が刻まれる。

また、大墓石前にある小墓石は、明治二年、寛永寺子院の寒松院と護国院の住職が密かに付近の地中に埋蔵したもので、墓所建設時に再発見された。

これら大小の墓石は、平成三年に台東区有形文化財として区民文化財台帳に登録された。

令和六年十月   台東区教育委員会

平成8年版説明板の内容

江戸幕府第十五代将軍徳川慶喜は大政奉還の後、鳥羽伏見の戦いに敗れ江戸へ戻った。東征軍(官軍)や公家の間では、徳川家の処分が議論されたが、慶喜の一ツ橋家時代の側近達は慶喜の助命を求め、慶応四年(1888)二月に同盟を結成、のちに彰義隊と称し、慶喜の水戸退陣後も徳川家霊廟の警護などを目的として上野山(東叡山寛永寺)に立てこもった。

慶応四年五月十五日朝、大村益次郎指揮の東征軍は上野を総攻撃、彰義隊は同夕方敗走した。いわゆる上野戦争である。彰義隊士の遺体は上野山内に放置されたが、南千住圓通寺の住職仏麿らによって当地で荼毘に付された。

正面の小墓石は、明治二年(1869)寛永寺子院の寒松院と護国院の住職が密かに付近の地中に埋蔵したものだが、後に掘り出された。

大墓石は、明治四年(1881)十二月に元彰義隊小川興郷(椙太)らによって造立。彰義隊は明治政府によって賊軍であるため、政府をはばかって彰義隊の文字はないが、旧幕臣山岡鉄舟の筆による「戦死の墓」の辞を大きく刻む。

平成二年に台東区有形文化財として区民文化財台帳に登録された。

平成八年三月

出典: 東京新聞