福沢諭吉の証言と丁丑公論
福沢諭吉の証言
西南の役の近因は、刺客が先か、弾薬略奪が先か、水掛け論である。しかし遠因は、明らかに明治6年の政変である。福沢諭吉は、西南の役に際し、その正邪を識別し、密かに「丁丑公論」を綴ったが、その中で彼は、明治6年の政変で大久保らが、西郷を廟堂から退けた理由は、何一つとして筋が通らない。筋が通らないとすれば、薩軍は賊ではなくて、むしろ義軍であるという。
福沢の説によると、征韓論が決裂して西郷は桐野利秋以下の将卒数百名と故郷に帰った。この時、西郷隆盛・桐野利秋・篠原国幹等は明らかに辞職でもなければ、免職でもない。多数の兵士も、正規の除隊の法に従ったものではなかった。彼らは連袂(れんぺい)して公然と東京を去ったが、政府に残る大臣諸侯は、いずれも制止することができず、黙認したのである。だからその状況は、あたかも陸軍大将が、兵隊を指揮して鹿児島に行くといってもよかった。
明治10年に西郷が東上しようとして、薩南の兵士が随行して行くというとき、中央政府がこれを討伐しようとしたのは間違っている。西郷も武力で争うつもりはなく、その先発隊にはくれぐれも、発砲しないよう申し含めておいた。発砲は熊本鎮台の方で仕掛けてきたのである。政府は頭から討伐するつもりで準備していた。これは、これまで薩摩人に対して、その権柄を与えて宥和してきたことから言えば、まさに表裏反復。明らかにペテンであるというのである。
丁丑公論
大山巌、西郷従道、東郷平八郎、山本権兵衛、黒木為楨、井上良馨等、日清、日露戦争に勝つことができた人達というのは、みな西郷の指導を受けた加治屋町の出身者であった。