山本権兵衛(1852年~1933年)
(海軍大将。海軍大臣、内閣総理大臣)
東郷平八郎を常備艦隊司令長官に任命する。
薩摩藩士を経て海軍軍人となり、日露戦争においては海軍大臣として日本海海戦を勝利に導いています。大国ロシアの南下政策によって日本に危機が迫る中、山本権兵衛は「ロシア海軍に必ず勝つ」という一点を目標に、海軍の大改革を行いました。
東郷平八郎といえば日露戦争で有名な連合艦隊司令長官ですが、彼をその役職に付けたのが、海軍大臣山本権兵衛でした。明治天皇に奏上した理由ですが『東郷平八郎という男は運の良い男です』だったとか。
東郷平八郎を常備艦隊司令長官にするには、それまでの常備艦隊司令長官「日高壮之丞」を更迭することであった。日高は薩摩生まれで、戊辰戦争には山本権兵衛とともに従軍した。当時権兵衛とは仲がよく、東京に出てきて、一緒に相撲とりになろうとしたほどの仲である。
日高にすれば開戦を前にやめさせられるばかりか、その後任者が東郷であるということで、二重の侮辱を感じた。日高は冷静さを失って、悔しさのあまり、腰に帯びている短剣をいきなり抜き、「権兵衛、俺はなにも言わぬ。この短剣で俺を刺し殺してくれ」と、叫んだ。
権兵衛は「戦国時代の英雄豪傑という役割ならお前のほうがはるかに適任だろうが、近代国家の軍隊の総指揮官はそうはいかない。東郷を選んだのはそういうことだ。わしはお前には変わらぬ友情をもっている。しかし個人の友情を、国家の大事に代えることはできない」日高はうなずきはじめ、やがて涙をうかべ、わしがわるかった、そういう理由だとすれば怒るべき筋合はない、あやまる、といって頭をさげた。辞めるほうも、辞めさせられるほうも命がけだった。辞めさせる側は無私であった。
戊辰戦争が終わって帰郷した権兵衛は、加治屋町の大先輩だった西郷隆盛を訪ねています。西郷は「おはんは海軍に行きなさい」と、権兵衛に勝海舟への紹介状を書いてくれました。紹介状を胸に、権兵衛は東京へ行き、勝海舟を訪ねました。
海舟の家に居候を許された権兵衛は、東京開成所(東京大学の前身)で海軍の基礎学ともいうべき高等普通学(数学、外国語、国語、漢文、歴史、物理、化学、地理など)を習いました。そして開成所を卒業した権兵衛は、築地にできたばかりの海軍兵学寮に入りました。その後、ドイツに留学し、モンツ艦長の感化を受けました。権兵衛がモンツから学んだもうひとつの大切なことといえば、それは妻への敬意です。妻のトキが、権兵衛の乗る軍艦を見学しに来た時のこと、見学が終わってボートから桟橋に移るとき、権兵衛は自らの手で、トキの履き物を彼女の足元にそろえて置いたのです。
そもそも妻を軍艦に案内することがまずあり得ないことでしたし、男性が女性の履き物をそろえるなんて、当時の習慣では考えられないことでした。実際、権兵衛はほかの将兵の冷笑をかっています。「男としてみっともない!」というわけです。しかし権兵衛は、まったく意に介しません。「妻を敬うことは一家に秩序と平和をもたらすのだ」彼はこう言ってはばからなかったそうです。
権兵衛とトキとの出会いは、権兵衛の海軍兵学校時代にさかのぼります。トキは新潟の漁師の娘で、家が貧しくて売られた身でした。トキの身の上に同情した権兵衛は、仲間に協力してもらい、女郎屋の二階からひそかにトキを綱で下ろして足抜けさせてしまいました。そして、知り合いの下宿にかくまい、ドイツ艦「ヴィネタ」での10カ月間にわたる航海の後に結婚しました。
正式に結婚するにあたって、山本は登喜子に七か条の誓約書を書きました。「家の中のことは妻に任せるから、日頃からいざという時のために夫婦仲良くしよう」というものです。当時の、お偉いさんは女遊びをして一人前という風潮がある中、登喜子にとってこれほど心強い一文はなかったでしょう。故郷から遠く離され、すぐに頼れるような親族もない状況で、唯一の味方に心の底から誠意を表されたのですから。山本は、ほぼ教育と無縁の生涯を送ってきたであろう登喜子のために、わざわざふりがなを書いてまで自分の意志を伝えているのです。これでついていかない妻はいないでしょう。
昭和8(1933)年12月8日、山本権兵衛は81歳の生涯を閉じました。その八カ月前には、73歳になる妻登喜子(トキを改名)が亡くなっています。登喜子は、目からポロポロと涙を流して夫の手を握り返したそうです。その日、登喜子は夫の愛を胸に抱きながら旅立ちました。登喜子がいよいよ最期というとき、権兵衛は妻の手を握って言葉をかけました。「お互い苦労してきたなぁ。だがな、私はこれまで何一つ曲がったことをした覚えはない。安心して行ってくれ。いずれ遠からず、後を追っていくからな」
権兵衛のトキへの愛と敬意は、終生変わることがなかったといわれています。
自分への厳しさと、弱い者をいたわる優しい心をあわせもち、一人の女性を愛し続け、尊敬してきた、そういう権兵衛の人となりが、周りの人を動かし、ひいては歴史を動かしていったのだと思います。国も家族、社会も組織も家族です。
西南戦争の前に山本は隆盛の真意を確かめようと、東京の兵学校を一時休んでまで鹿児島に会いに行っています。場合によってはそこで西南戦争に加わったでしょうが、隆盛から「これからの日本には必ず海軍が必要になるから、今、学生の君たちは大いに学ばなくてはならない」と諭されました。東京に帰って学問に励むことにしました。
また、西南戦争からしばらく経った後、弟である従道に
「なぜ兄に賛同しなかったのか」
と迫ると従道は「兄弟揃って帝に背いては、他者への影響が大きすぎる」
「兄の考えに反対するために東京へ残ったわけではない」と理由を話しました。
従道には従道の考え方があり、保身に走ったわけではないということを理解した山本は、従道と互いに信頼し合うようになっていきます。その後、山本が海軍の改革を行う際も、大臣である従道が「責任は取るから好きにやれ」と全面的に後押ししてくれました。
マッカーサー回想録からの引用
「マッカーサー回想録」(朝日新聞社・昭和36年)
「私は大山、黒木、乃木、東郷など偉大な司令官たちに全部会った。そして日本兵の大胆さと勇気、天皇への殆ど狂信的な信頼と尊敬に永久に消えることのない感銘を受けた」と書かれているそうです。それほどまでにマッカーサーは大山のみならず、日本の将軍たちに敬意を払っていたということが分かると思います。
日露戦争を勝利に導いた指導者たちはほとんど加治屋町「ヒーローズ・クォーター」出身者であった。